丸岡城は柴田勝家の甥で養子となった柴田勝豊によって築かれた城です。江戸時代には福井藩の附家老として城主をつとめていた本多成重がをつとめていましたが、福井藩主・松平忠直の隠居に伴い独立し、丸岡藩が成立しました。その後、本多家がお家騒動で改易となったのちは、代わって有馬氏が入封し、以後6代がこの地を治め明治維新を迎えました。掘立柱構造の望楼型天守や、笏谷石を使った石瓦などが特長の北陸唯一の現存天守で、「日本100名城」や「日本さくら名所100選」に選ばれています。 指定文化財 重要文化財(天守) | |
笏谷石を使った石瓦などが特長の北陸唯一の現存天守で、「日本100名城」や「日本さくら名所100選」に選ばれています。屋根が珍しい笏谷石(しゃくだにいし)でふかれた。
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天守閣石垣のそばには、徳川家康譜代第一の功臣で鬼作左の勇名をとどろかせた本多作左衛門が家族にあてた手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の碑もあります。 | |
一度ならず三度と崩れ落ちる石垣に、ついに人柱を立てることになった。そこで選ばれたのが、美しい生娘でなく、お静という夫に先立たれた後家。しかも、二人の子持ちのうえ、片眼を失明していた。 お静は、二人の息子を侍に取り立てることを条件に、石垣の底奥深く埋められた。お陰で石垣積みは見事に完成し、その上に天守も立った。 だが、お静の約束は、果たされなかった。お静の怨みは、やがて亡霊となり、その姿は片眼の蛇となって城の井戸深く棲みつくようになった。そして時折現れては、恨みごとを述べたという。今もその井戸は、本丸跡に『蛇の井』と呼ばれて残っている。 また、お静が人柱に立たされた四月中旬になると、きまって長雨が降り続き、これがまた、誰いうことなく『お静の涙雨』と呼ばれるようになった。 |
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現在は天守閣があるだけだが、当時は長さ100間余に及ぶ広々とした堀や本丸、二の丸などの各郭があり、二の丸御殿や大手門、不明門など数多くの建物からなっていたことが分かる | |
丸岡城の桜
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江戸時代には福井藩の附家老として城主をつとめていた本多成重がをつとめていましたが、福井藩主・松平忠直の隠居に伴い独立し、丸岡藩が成立しました。その後、本多家がお家騒動で改易となったのちは、代わって有馬氏が入封し、以後6代がこの地を治め明治維新を迎えました | |
平成29年4月丸岡城の夜桜。 丸岡城(別名霞ケ城公園)
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一筆啓上 日本一短い手紙の館 福井県坂井市と丸岡文化財団は2019年4月5日、第27回日本一短い手紙一筆啓上賞のテーマを「春夏秋冬(はるなつあきふゆ)」と発表した。同市一筆啓上日本一短い手紙の館で会見した財団の田中典夫理事長は「好きな季節、嫌いな季節、忘れられない季節がそれぞれあると思う。私たちの心を動かしてくれる手紙が寄せられるのではないか」と話した。10月11日まで作品を募る。 丸岡城のすぐ近く、図書館の横。 北陸自動車道 丸岡インターチェンジより5分
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